東京 渋谷・富ヶ谷 千代田線 代々木公園駅から数分歩いたところに店舗を構える”ミュゼ ドゥ ショコラ テオブロマ”。
[youtube url=”https://www.youtube.com/watch?v=geLky15V3sA&feature=youtu.be” width=”600″ height=”400″ responsive=”yes” autoplay=”no” mute=”no”]
テオブロマとは、チョコレートの原料であるカカオの木の名前に由来しており、ギリシャ語では”神様の食べ物”という意味をもつ。チョコレート専門店として、20年近く運営しているテオブロマは、当時まだまだ日本にはチョコレートが普及していなかった頃に本格的なチョコレートを提供しチョコレート愛好家の間で人気となった。
今回紹介したいのは、テオブロマのオーナーである土屋公二(つちやこうじ)氏の創業から20年近くカカオに向き合ったストーリーである。
体調をきっかけに始まる菓子職人としての人生
「高校卒業して、最初のキャリアはスーパーに入りました。そこで、椎間板ヘルニアになって体を壊してしまい辞めることに。当時は19歳、違うことにチャレンジしようと、パティシエというよりは洋菓子職人になろうと決心をして地元清水のケーキ屋で働くことになりました。」
「地元の清水のケーキ屋で働き始め2年経ったところで、フランスに行きました。よく修行、修行って言うのですが、フランスに行った理由も、別にそんな自分のお店を開くといった野望や大それた気持ちは無かったです。」
「修行というと僕の中ではお坊さんの出家みたいなイメージ何ですけど、そんなことはなく、もっと軽い気持ちでした。当時は、日本の高級フランス菓子でショートケーキが売っているようなことが普通で『本当にショートケーキがフランスの高級菓子店に売ってるのかな』っとふと疑問に思ったんですよね。当然、フランスではショートケーキは売ってないんですよ。だって、ショートケーキは日本のものですから。」
「高級フランス菓子ってどういうものなのか、それを自分の目で見てみたいと思いフランスに行きました。今となっては想像もつかないと思いますが、当時は正式に働くすべがなかったんですよね。今のようにビザを取るとか、そういうことが整備されていない時代。フランスに行ったという情報も、今のようなインターネットで簡単に海外に行ける時代ではないので、なんかもぐりで行った人がいたとか、そういう話を聞くぐらいの情報しかありませんでした。」
「ちゃんと正式に向こうに滞在したいということで、就労ではなく学生ビザをとって行きました。ちゃんと手続きをして、学生として3ヶ月フランス語を学ぶ、それで3ヶ月で日本に帰って来ればいいや、というような軽い気持ちでした。」
*テオブロマ チョコレート”じゃり”
「結果的には、そこから6年間、日本に1度も帰らずにいました。3ヶ月経って、言葉が少し分かって生活に慣れてくるともうちょっといたいなって思うようになり、また、働けるお店を紹介してくれる話もあったので滞在することに。小さな町のパン屋から始めて7軒ぐらいのお店を転々とする形。結果的に勉強する形になったので、修行という感じではなかったです。」
町のケーキ屋から有名店で学んだ大切なこと
「7軒を回る中で、フランス菓子を勉強するのには適した店ではないところもありました。でも、地域に住む人にとってみれば大事なお店だったかもしれないですね。駄菓子屋的な店も大事じゃないですか。僕が子どもの頃とか、1個5円とか10円で売ってくれる駄菓子屋があって、世の中にとっちゃどうでもいいけど、子どもにとっては大事な店です。」
「一番最初行った店っていうのは、そんな本当に名もないパン屋だったんですけど、すごく人がやさしくて、そこで日常会話を学んだと思います。おじさんが競馬を聞きながらパンを作ってるのですが、毎回負けるんですよね。仕事中、4時か5時ぐらいにわーっと盛り上がって、『ああ、今日負けた』『いけいけいけ、あー、駄目だった』みたいな。その中で、別にお金はもらわず、シャワーだけ浴びさせてもらって、パンを1個もらって帰ってくるような生活をしてたんですね。」
「そういう店もあったし、三ツ星レストランで働くこともあった。あとは今では日本でも有名なショコラトリーやパティスリーで働くこともできました。チョコレートだったらここの店、ケーキだったらあの店っていうような時代で、そういった当時のトップの店から町の小さなお店で働けたことは大きいと思います。というのは、言うことが全部違うわけですよ。例えば町のケーキ屋に行ったら、いかに安い材料でいかに大きく作るか、そういう事を学ぶんですけども、有名な店になると裕福なお客さんしかこない。裕福な人にとって値段はいいから、一番いい材料を使って、小さくて、豊富にフルーツを盛るとか、そういう事が大事になってくる。」
「それはどちらも正解で、不正解ではないんですね。要するに、出すお店によって違う。北海道の山の中で高級品作っても、お客さんは来ないじゃないですか。やっぱり東京の一等地でやるのに、一番安い材料でやっても、お客さんは納得しないっていう事です。”場所によって使い分けるという事”。自分はどの生き方をしなきゃいけないかっていう事も学びました。その両方を学べたことはすごく大きかったかなと。」
日本へ帰国、雇われとして働くことに
「27歳のちょっと手前で帰ってきたんですけど、そのときに日本ではバブルの絶頂期だったんですよ。実は僕はバブルの間フランスにいたのでバブルを知らないんです。景気が上る感じが分からず、多分帰ってきたときは絶頂期で、気が付いてないんですよね。」
「日本にはDCブランドの会社が代官山でケーキ店をやっていて、そこの社長に『うちに来てくれ』って言われて帰国しました。まあまあ給料もそこそこもらって、代官山でシェフとして3年ほど働いてたという感じ。その後、フランスで修行してたときの親方が、日本に支店を出すから、『お前がシェフをやらないか』って話があり、チョコレート専門店のシェフとしてやることになりました。当時の時代背景が大きく、その頃にバブルが弾けるわけですよ。そうすると、売上が下がるんですよね。私が始めたチョコレートの事業っていうのは、新規事業なので伸びていくんです。でも、会社全体の売上は下がっていくんですね。」
「常に世の中は上に行くんだ、ということが逆転して、もう経済がぐちゃぐちゃになっていく。給料が下がるとか、そういう現象が起こってくるんですね。私としては納得いかないというか、自分の事業は伸びていって、売上も上がっていくのに給料が伸びない。その頃、自分は何のために生きてるっていうのだろうとか、自分は何ができるんだろうとか考えるようになりました。もっと言うと、雇われてるっていうことは楽なんですよね。一方で、友達を見てると、その頃店をやってた人はうまくいってない。若いときは独立するんだってことを簡単に言うけど、ある年齢になると怖くなるわけですよ。」
「結果、自分でやることを選択したんです。結構その頃の決断は大きかったんですよね。会社ってやっぱ圧力あるんです。そこから逃げたい自分がいるんですよ。片や、不安な自分もいる、自分でやれば本当に大変だと。その葛藤があるんですけども、そういうのを全部捨てて、もっと気楽に考えました。人生は1回、好きなことをやってみようと。要するに、会社に行って会社の文句を言うのはやめて、自分でやって、全部の責任は自分にあるんだという考えで、自分の生き方は何かってことを真剣に考えてやると。それで会社を辞めたんです。」
フリーパティシエとしての道に
「会社を辞めて、さっぱりしました、それだけ組織が嫌だったんでしょうね。ただ、うれしかったのは3日間だけ。4日目からどうなるかっていったら、不安になるんです。だって、お金が入ってこないんですから。元々働くの好きな人間だったら、ぼーっとしてられないんですよね。そしたら、電話が鳴ったんですね。」
「『展示会があるから来てくれないか』『講習会の講師をやってくれないか』というオファーで、雇われのときより日銭はだいぶいいですよ。1本の仕事で半月分ぐらいのものをもらえるわけです。これはいいなと思って、それを始めたんですね。そのとき自分で名前を作ったんですけど、名刺に『フリーパティシエ』って書いたんです。」
「ケーキもチョコレートもできるってことで、年齢的にもちょうど良かったんじゃないですか。38歳ぐらいで動けるし、別に高いこと言わないので仕事は増えていきました。ただ、落とし穴があって、忙しいのは春と秋なんですよ。例えば12月、1月とか8月は収入がゼロです。これはやばいなと思っていると、今度は9月、10月になると、ものすごい量の仕事が来るんですよ。そうこうしているうちに、胃潰瘍で血を吐いて倒れちゃったんですよ。すぐ戻って仕事をやりたいと思っていましたが、そのまま入院しました。」
壮絶なフリーパティシエを卒業しチョコレート専門店 テオブロマを開業
「そのとき、決断したんです。もうこの仕事は辞めよう、フリーパティシエっていうのを卒業しよう、と思ったんですね。その頃、家が二子玉川で、青山に顧問先があって、抜け道で今の店の道を通ったんです。それで富ヶ谷の物件を見つけて、でも非常に自分には大きくて似合わない高い物件でした。」
「かなりの金額で、そのときの持ち金は10分の1ですよ。どうしようと思ったのですが、僕の生き方の中に、『何とかなるかな』っていうのがあるんですよ。ないときは頼むんだって、今までの実績の中で、色んな人に頼んでいきました。勿論お金を借りる事もですし、道具屋さんに頼んで後払いにしてもらいました。3カ月経ったらお金何とかなりますよみたいな。」
「お店ができて1年間ぐらいは、お金は自分にはほとんど入ってこないです。お店の卵を食べて、同じ服着て。けれど、今でもその時の決断は間違っていなかったと思います。その時の考えが今の自分の思想にも繋がっています。例えば、信号が変わりそうになったら無理してでも、走ってでも渡ります。間違っても、待ってて、『ああ、赤になっちゃった』はないですね。なぜかっていったら、無理やり行くことによって電車に乗れるけど、待ってたら電車に乗り遅れるでしょ。でも、その電車に乗り遅れることによってチャンスが来ないかもしれないじゃないですか。」
「お店もそうなんですけど、1円でもいいから利益を出せば、ずっと黒字決算ですけど、赤字決算の会社は潰れる方向に向かっていくし、成長はしていかないんですよ。その差っていうのは、信号ピカピカのときに止まるか行くかぐらいの事だと思うんですよね。人間ってほとんど差がないと思うんです。コンクールとか見てても、みんな努力してるんです。でも、ちょっとだけ努力が優った人だけが勝っていくわけです。1999年の3月、テオブロマのお店をオープン。当時は、個人で大きな店をやる人はあんまりいませんでした。そして、チョコレートの専門店を個人でやる人はいなかったわけです。」
「友達の間では、『あいつ、やべえな』『潰れたら誰が拾ってあげんの?』みたいな事を言ってたらしいです。結果、開店時は思った以上にお客さんが来ました。開業後、コンサートのお菓子とか、そういう大きな注文が入ってきて、色んな人のコネクションで何とか切り抜けて、冬を迎えどんどん売れていきました。」
「ちょうど2000年の冬からうちはチョコレートを本格的に始めていくんですけれども、高級チョコレートの日本の幕開けが、私の中では2000年ぐらい。その後、2000年以降にチョコレートのブームみたいなのが来るんですよね。だから、ずっと売上が伸びていって、自分が予想してる以上の会社になってしまったんですよね。」
本格的な手作りのチョコレートを日本に根付かせたい
「店を出したときに考えたのは、やっぱり本格的な手作りのチョコレートを根付かせたい、という事。本当においしいチョコレートを味わって頂きたいっていう事ですね。よくある高級洋菓子店は工場生産品なんです。そうじゃなくて、ちゃんと手作りのおいしいものを作りたいっていう事です。」
「フランスに行った時、パン屋の後に働いたのが今では有名な高級なショコラトリーでした。日本人で初めて働いたわけなんですけども、その時のチョコレートの味が忘れられないですよね。それが自分の人生を変えました。日本では、スーパーで売ってるチョコレートしか食べたことがなかったんだけど、それがフランスに行ったらこんなに美味しいチョコレートがあるのかと。作り手は面白いもので、その美味しいものを作りたいと思うんです。その次に、それを味わってもらいたいと思うわけですよ。なのに、日本に帰ってきたら、その土壌がまだないんですよ。そこにいきなり種まいても無理なんで、たまたま雇われて12年ぐらい過ごすわけですけども、そのときにだんだんバブルが弾けることによって、土壌ができたんでしょう。お陰様で、いろんな人が『チョコレートなら土屋さんね』って言ってくれるんですよ。そこは大きいです。一方で、チョコレートはチョコレートでも実はカカオに興味があるんです。」
カカオの原産地に行き人と関わる人生
「『豆から作らないやつはショコラティエじゃない』とはあるショコラティエが語った言葉です。それは理想的だと思うんですよね。結局、チョコレート専門店といっても原料メーカーのチョコレートを買って作るんですよ。だから、『私が作った板チョコですよ』って言うけど、誰かが作った原料なんです。だから、同じ味のものを他の店も作ることができるのです。ただ、そこにブランドがくっついていたら高く売れるわけですよ。でも、ブランドがくっついているものも、田舎の誰かが作ってるおじさんのチョコレートも、実は一緒の味だったりするんです。一方で豆から作れば、そこに作り手が入るので全然味が変わるのです。だからちょうどお店をつくった頃から、カカオの生産地に行っています。」
「カカオに興味を持っていると言っていますが、実際のところ興味があるのは”カカオを作っている人”ですよ。カカオは、国によって味が違うんですよね。なんでその味なんだろうってときに、普通に考えて品種、気候が要因にありますよ。けれど、カカオの味の違いは、この親父が作ったんだとか、このおばさんが作ったんだ、という”人”によって左右されることが面白い。」
「確かにカカオが違うと味が全く違うんですよ。この国の豆は酸味があったり、最初はミントの味したけど途中からレモンの味に変わる、っていうのが面白いわけですよ。調理していても1回目、何℃で焼いたらこんな味だったけど、温度変えたらこんな味になったよ、っていうのが面白い。また、カカオって1カ月経ったら味変わるんですよね。超面白いですよ。これは作り手しか分かんないですよね。」
チョコレートのために生きていく
「もう決めたんですよ。チョコレートのために生きていくって、決めたんです。一番はそこです。多分ある程度の年齢になって、1つのことをやってると、そこが一番落ち着くんですよね。だから、家でドラマ見ているよりも、チョコレートのことを勉強してるほうがいいんですよ。それに、決めたっていうのは、最終的には人のためになるんですよ。お客さんが喜ぶ笑顔が見たいっていうのはありますよね。だから、自分がアフリカに行って、いいカカオを見つけて、これはいいなと思ったものを修正を重ねて作って、美味しいものを作って。それを買った人から『もう、美味しいわ』って言われたら嬉しいんですよ。それだけですよね。」
「今後の展開としては、会社を大きくする事はないです。逆に、どちらかと言うと小さくしていきたい。チョコレート専門店としてはより個性的な味に向かっていくと思っています。もうこの先はいつ引退するかになってくるので、自分が思い残した事をやりたいっていうのが一番なんですよね。お金でもないし、名誉でもない、自分が最後にやりたい事をやっていくと。その中には、カカオ農園を訪れる事によって、何らかの形の支援をしたいというのも含まれます。」
「お金じゃないんですよ。何らかの形の支援をしたいけど、そこで働く人と話もしたいし、それをみんなに理解してもらって、美味しいチョコレートを提供していくっていうのが一番の使命かなと思うんですね。」
「たまたま私はカカオとかチョコレートとかだったっていう事なんですよ。いろんな形でやりがいを見つけたり、社会に貢献したりする。たまたま自分はカカオとかチョコレートに巡り合って、たまたまそういう立場になっちゃった。そこから逃げたくないんですよね。逃げないで、世の中に為に向かっていかなきゃいけないなって感じます。それは偉そうに言えばそうだし、逆に言えば、それしかできないと思っています。」
テオブロマの店舗紹介
[box title=”お店情報” box_color=”#c30d23″]店名:ミュゼ・ドゥ・ショコラ テオブロマ 本店
住所:東京都渋谷区富ケ谷1-14-9 グリーンコアL渋谷 1F
営業時間:9:30~20:00
定休日:年中無休(年末年始を除く)
[/box]
[gmap address=”東京都渋谷区富ケ谷1-14-9 グリーンコアL渋谷 1F”]
[box title=”お店情報” box_color=”#c30d23″]店名:ジェラテリア テオブロマ 神楽坂
住所:東京都新宿区神楽坂6-8 Borgo Oojime
営業時間:10:30~19:30
定休日:月曜、年末年始
[/box]
[gmap address=”東京都新宿区神楽坂6-8 Borgo Oojime”]
[box title=”お店情報” box_color=”#c30d23″]店名:ミュゼ・ドゥ・ショコラ テオブロマ 小田急百貨店新宿
住所:東京都新宿区西新宿1-1-3 新宿小田急百貨店 B2F
営業時間:10:00~20:30
定休日:年中無休(百貨店の休日に準ずる
[/box]
[gmap address=”東東京都新宿区西新宿1-1-3 新宿小田急百貨店 B2F”]