継承と革新、日本の美しい生活文化を創造するチャレンジ精神を

銀座は、日本の“新しさ”がありながら、“昔ながら”もちゃんと感じることのできる街。

銀座に創業当時より店を構える、資生堂パーラー。日本の「美」と「食」を牽引する重鎮的存在である。今でこそカフェやレストランのイメージが強いが、その始まりは資生堂薬局内に設けられた“ソーダファウンテンコーナー”であった。今回は、資生堂パーラーのブランドストーリーについて紹介する。

強い信念があるところに本物は生まれる

遡ること、今から100年以上。創業者・福原有信(ふくはらありのぶ)氏は、銀座八丁目(当時の出雲町一番地)に日本初の洋風調剤薬局、資生堂を開業する。資生堂という名の由来は、中国の古典「易経」の中の一節「万物資生」から。「大地の徳はなんと素晴らしいものであろうか。すべてのものは、ここから生まれる」という意味であり、“ここから新たな文化を生み出して行こう”という、福原氏自身の強い信念が込められている。

当時の日本人にとって、西洋の文化は目新しくもあり、風変わりなものとして捉えられていた。そのため、薬局の洒落たデザインの商品や高品質な品揃えは、なかなか受け入れてもらえず、創業当初は苦悩と試行錯誤を繰り返す日々であったそう。
しかし、福原氏は“本物志向”の信念を貫き通し、品質の良さが理解されるようになり、「信頼できる薬局」として、人々に受け入れられることとなる。
薬局では薬のほかに、歯磨き粉やおしろい、化粧水など美容に関する商品も自社で作り、販売していた。これは福原氏自身が「美」への造詣が深い人物だったことを現しており、のちの資生堂化粧品部へと繋がっていったのであろう。

始まりは“ソーダ水”だった

1900年、福原はパリ万博視察の帰りにアメリカへ立ち寄る。そこで目にしたのは、ドラッグストアでソーダ水片手に談笑するアメリカ人の姿であった。福原氏はその光景を見て直感的に「面白い」と思った。薬のイメージ自体“良薬口に苦し”ともいうように、決して美味しいものではなく、苦くてまずいものである。そんな中、アメリカのドラッグストアではソーダ水片手に楽しく談笑している。そこにインスピレーションを得た福原は「ぜひとも日本の薬局に取り入れたい!」と心を動かされ、帰国。


現在の資生堂パーラー アイスクリームソーダ(レモン)

それから2年後の1902年、資生堂薬局内に「ソーダファウンテン」コーナーを設ける。そこではソーダ水をはじめ、日本では希少だったアイスクリームも製造販売。この時、ソーダ水製造機や、スプーンにストロー、コップなどをアメリカから取り寄せるなどして、徹底的に本物にこだわった。このソーダファウンテンが今でいう「資生堂パーラー」の前身である。

ちなみに、日本初のソーダ水や、当時まだ珍しいとされたアイスクリームは、日本を代表する文豪、森鴎外の小説「流行」の中にも登場する。「ハイカラな資生堂」というイメージが日本人へ強く印象づけられることとなる。

引用:歴食.https://www.rekishoku.jp/ja/story/54

福原有信氏が仕掛けた斬新なマーケティング戦略

福原氏には、流行を誰よりも早く見抜く才能があった。ソーダ水を、オイデルミン(1897年の発売以来、資生堂のロングセラー化粧水のこと。別名「資生堂の赤い水」とも言われる)とセットでパッケージにして発売。新橋の芸者衆や一流志向の人々の目にとまり、たちまち大ヒット。ソーダ水が当時まだ珍しかったことも流行した理由のひとつではあるが、もうひとつ、福原氏が仕掛けた斬新なマーケティング戦略にもあった。

(写真)当時、ジャパンタイムズ(外国人向け日本新聞)に掲載した、ソーダ水と化粧水の広告

1903年に発行された資料の中にも、紙面の真ん中に、当時まだ福原資生堂だった頃の屋号にて『American Soda Water. FUKUHARA SHISEIDO』と堂々掲載されている。
この新聞は、日本に滞在する外国人向けのものであったことから、福原は「アメリカの懐かしい味を、日本でも楽しめる」とアピールした意図が垣間見える。

「人々の生活を、美と健康で豊かに」

1917年、ソーダファウンテンを備えた薬局から、化粧品部を独立させる。薬局からひとつ道を隔てた角に、化粧品販売を行う店を別に開店。煉瓦造りの店舗には、1階が店舗、2階を化粧品製造、3階には意匠部を新たに設けた。

意匠部では、ポスターや新聞などの広告、パッケージデザイン、店舗設計まで行っていたというから驚きである。ここで生み出されたモダンで洗練されたデザインの数々は「資生堂スタイル」とも言い表されていたそうだ。現在の資生堂にも通じる、優雅で気品あるイメージはすでにこの時からスタートしていた。

製品のみならず、デザイン全般を自社で行うそのスタイルは、福原の強い美意識から来るものであり、デザインをいかに重要視していたかが強く現れている。

他には研究室も設けられ、そこでは新製品の開発および既製品の改良が行われていた。当時から化粧品を化学製品として扱い、徹底した品質管理を行うという姿勢からは、またしても福原の本物思考精神が垣間見える。

資生堂の基本理念とされる「美と健康」が大きな柱となったことには、福原が創業時より「人々の生活を、美と健康で豊かにしたい」という思いがそのまま反映されており、現在まで引き継がれている。そしてその資生堂の“内面へアプローチする姿勢”は、やがて、人間が生きていく上で決して欠かすことのできない「食」の世界へと発展することとなる。

西洋料理を日本へ。資生堂パーラー誕生

1923年の関東大震災では資生堂も全壊の被害を受けた。しかし、銀座界隈にある店は、どこも3ヶ月ほどで復興。資生堂もそんな状況の中、厳しいながらもと経営を続けていた。

復興後の建物はプレハブ(バラック)であったが、パリなどで活躍した洋画家、川島理一郎氏に依頼し、白亜の御殿のように、しっかりとした印象の建物だった。

*(写真)当時送られていた資生堂アイスクリームパーラー開店時の招待状

そして、1928年、西洋の食文化をより日本へ広めたいと考えた福原氏は、本格的な西洋料理店「資生堂アイスクリームパーラー」をスタートさせる。名前に”アイスクリーム“とつけたのは、当時人気だったこともあり、お客を引きつける意味合いでつけたと言われている。その後、店名は現在の「資生堂パーラー」へと変更された。

代表メニューは、ビーフカレーやチキンライス。そのほか、ビーフシチューやトマトマカロニグラタン、プレーンオムレツなどもメニューに並ぶ。

*(写真)当時の貴重なメニュー表。英語、日本語、カタカナ表記が入り混じる。ビーフカレーよりもチキンカレーの方が値段が高いのは、当時、牛肉より鶏肉の方が高級とされていたためである。

現在の資生堂パーラー人気メニュー、オムライス。実は、立ち上げ当初はなかったメニューなのだそう。お客さまから「チキンライスをオムレットで巻けないか?」と依頼されたことがきっかけで、いつしか定番となった。

長年受け継がれてきた、伝統メニュー

外はサクサクッ、中はトロトロの「ミートクロケット」

1931年、3代目総料理長となった高石鍈之助氏。彼は、13歳から洋食屋の名店と呼ばれた東洋軒で修行を重ねた人間であった。その間に、昭和天皇が皇太子時代の午餐会にたまたま立ち会った際、そこで出会ったフォアグラのクロケットというフランス料理に強く感銘を受ける。「これをいつか”自分なりの一品“として作りたい」そう想い続け、資生堂パーラーで、ミートクロケットを考案。以降、これは同店の名物となり、今もなお受け継がれる代表メニューである。

コロッケは当時、庶民の味として大変に親しまれていた。高石鍈之助氏は「フランス料理を日本人に食べてもらいたい」そんな想いから、じゃがいもを使っていないミートクロケットを作ったのではないかと思われる。

食べたときに程よい歯応えが感じられるよう、中の仔牛肉とハムは細かな賽の目状に切られており。つなぎのベシャメルソース(ホワイトソース)を合わせ、衣を付けて油でさっと揚げたらオーブンへ入れてじっくり熱を通す。この一手間が、外はカリッ、中はトロトロのミートクロケットへと繋がるのだ。
盛り付けの際、ソースをクロケットの下にしくのは「美しい俵型を食べる直前まで目でも楽しめるように」という、資生堂ならではの“美”へのこだわりから。

引用:資生堂パーラー.https://parlour.shiseido.co.jp/restaurants/traditionalmenu/index.html

深いコクと豊かなスパイス広がる「カレーライス」

資生堂パーラーのカレーライスは、深いコクと香り豊かなスパイシーが特徴。一度食べるとクセになってしまう味だ。完成までには数日かかり、食材こそ変われど秘伝のレシピは開業当時からずっと受け継がれるもの。

作り方は、まず、玉ねぎ、しょうが、にんにくそれぞれみじん切りにしたものを、ラードで個別にじっくりと揚げる。そこへ、小麦粉とブレンドされたカレー粉を合わせて焼き色がつき、さらに味に深みが出るまでオーブンで1時間。程よい赤茶色になったら、鶏ガラ、香味野菜、ブイヨンを加えてさらにじっくりと煮込む。最後に丁寧に漉して、完成。手間暇かけたカレーは、口当たりはとてもまろやかで、しっかりと味わい深い一品に。

引用:資生堂パーラー.https://parlour.shiseido.co.jp/restaurants/traditionalmenu/curry.html

資生堂のシンボルマーク “花椿”と“パーラーブルー”の秘話

資生堂パーラーと言えば、やはり、花椿ビスケットを忘れてはならない。優しい甘みとサクサクっとした食感は、どこか懐かしい気持ちを思い起こす。

商品名にもある“花椿”は、資生堂のシンボルマークでありクッキー自体にもデザインされている。花椿模様は、創業者である福原氏自身が水の入った鉢の中に椿の花を浮かべ自らデッサンしたものが原形だそうだ。

*1990年、当時リニューアルした資生堂パーラーの洋菓子パッケージ

また、クッキーのパッケージにも使われるブルーは、資生堂パーラーのシンボルカラーでもあり、“パーラーブルー”とも表現される。パーラーブルーが誕生したのは、1990年。革新的なデザインを数々生み出してきたグラフィックデザイナー、仲條正義氏が仕掛けたものである。当時、ブルーは食の分野ではタブー視されてきた。その理由として、「食欲がわかない」「美味しく見えない」からである。しかし仲條氏は敢えてそれを逆手にとり、ブルーを前面にしながらもゴールドを配色することで、上品かつ印象的なパッケージへと仕上げた。後にこのデザインは広く親しまれるとともに「資生堂パーラーと言えばブルーのパッケージ」と言われるまでになる。

「継承と革新」創業から根付いた資生堂パーラーのチャレンジ精神

パーラーブルーは誕生以来、マイナーチェンジしながらも長く愛され続けた。しかし2015年、資生堂パーラーは「若い方や海外の方にも手にとって欲しい」という思いから、定番の洋菓子シリーズのパッケージを始めとするリボン、ショッピングバッグ、包装紙を総じてアップデートするに踏み切る。味わいもさらに美味しく進化させた。

このデザインを再び手掛けることとなったのは、パーラーブルーの生みの親、仲條氏その人だった。彼は、資生堂パーラーの想い「伝統と革新」をもとに、新しいデザインのテーマを「銀座アバンギャルド」と掲げる。そこには「銀座を引っ張り、牽引していく存在になって欲しい」という意味が込められている。

生まれ変わったデザインは、赤、白、青を基調としたストライプ。フランス国旗をイメージさせる、ポップな印象へと大きく変化。時より黒を使用し、力強さもプラスした。同時にこだわったのは、ひと目で何の商品が入っているのかがわかること。

それぞれのパッケージの目立つ位置に「CHESE CAKE(チーズケーキ)」「BISUITS(ビスケット)」などと、中身の商品名をオリジナルフォントで記載するという大胆かつ新鮮な試み。

あまりの変化に賛否両論あったそうだが、新しいことにチャレンジし、よりたくさんの人に知ってもらいたいという資生堂の強い信念「トライアンドエラーアンドトライ」の精神がそこには息づく。

デザインのほか、味も変更された。人気のチーズケーキは美味しさをさらに追求するため、材料が一部見直された。以前は日本産とデンマーク産のチーズをブレンドしていたが、100%デンマークにし、より本物に近い濃厚な仕上がりに。

大きな企業であればあるほど、ひとつの決断は、良くも悪くも大きな変化を伴う。しかしながら、「伝統と革新」の精神は、守るばかりでは決して生まれないのだ。それゆえ、2015年のこの改革は、資生堂パーラーにとって、かなりの大きな覚悟と決意を伴い進められた。

「贈り物に」「おもたせに」 洋菓子だったら資生堂パーラー

資生堂パーラーのお菓子の魅力は、可愛いパッケージや美味しさはもちろんのこと、おもてなしの精神が宿っているところ。例えば人気のチーズケーキは、1つずつ小包装になって食べやすく、ちょうど良いサイズ感で販売されている。これは、友達や職場などの大人数の場で配りやすいということもあるが、ひとりでも食べやすいようにとの想いでもある。

使う材料にもこだわり、安心・安全なものを条件に、美味しさを追求するためには味のアップデートも欠かさない。「贈り物に」「おもたせに」「大切な場所に」と、どんなシチュエーションにも使える豊富なラインナップは、「洋菓子だったら資生堂パーラー」と多くの人から選ばれる理由にもなっている。

お菓子を始め、カフェ、レストランと、資生堂パーラーの全てをひとつの場所で楽しめてしまう「資生堂パーラー 自由が丘店」が2019年5月にオープン。ここでは定番のお菓子やレストラン、カフェメニューのほか、店舗限定の生菓子なども提供される。地下には菓子工房を完備。ケーキやチョコレートといった生菓子を作っている。自由が丘駅から徒歩5分というアクセスのしやすさも魅力。テラス席もあり、お散歩途中のちょっとした休憩場所としても気取らずに入ることができる。

銀座を照らす灯台のような存在に

赤煉瓦の出立ちが銀座の街の中でもひときわ目を引く、東京銀座資生堂ビル。スペインの建築家、リカルド・ボフィルが設計を担当。

コンセプトは、資生堂の名前の由来「万物資生」から引用し、”全てのものは、大地から生まれている“というメッセージを踏襲。煉瓦造りには、銀座の大火の後、火が回らないようにとの理由から、銀座界隈が煉瓦造りの建物に統一されるとともに「煉瓦街」であった当時を思わせる。また、建築家であるリカルド・ボフィルの、生まれ故郷スペインの大地が赤土色であり、この2つは静かにリンクしている。

完成したのは2001年。創業当初から変わらぬ場所。資生堂アイスクリームパーラー、資生堂会館ビルを経て今の姿となった。
2001年の竣工当時、銀座で最も高かった11階建てのビルは、今なお「銀座を照らす灯台のような存在」だ。

そして、資生堂パーラー 銀座本店は、よりお客さまが快適に過ごせるようにとの想いから、2019年11月リニューアル。さらに“美”へ磨きをかけた、新しい資生堂パーラーと出会える。

お客さまに寄り添う“with(ウィズ)”の精神

資生堂パーラーは、ふつふつとみなぎるパッションを匠のよう研ぎ澄まされた精神と技術で、ひとつひとつ時代とともに形にしてきた。時に斬新なものは世間にすぐに受け入れてもらえなかったが、信じた道を決して曲げなかった。その信念は創業者である福原氏の想いでもある。

そのスピリットは今、資生堂パーラーの代表が考える“with(ウィズ)の精神”に投影される。
ひとりひとり違う想いで来店されるお客さまへ、心地よいサービスを提供したい。通り一遍のマニュアルではなく、お客さまに寄り添う気持ちを大切にしたい。そんな想いが、ここには込められている。

元を辿れば、西洋文化を日本人に知って欲しいという想いから始まり、日本人の口に合う洋食を提供することから資生堂パーラーは進化し続けている。西洋文化をただ取り入れるのではなく、好きになってもらうため、美味しいと感じてもらうための優しさは忘れない。その誠実さ、姿勢のようなものは、日本人ならではの繊細さであると感じる。

驚き、感動、喜びを提供してきた資生堂パーラー。100年以上も続いてきたその根幹には、日本人だからこその文化や精神を決して忘れない、そんな想いを脈々と受け継いできたからだろう。

「本物に出会える」「ずっと通いたい」そんな場所であり続けたい

長きにわたり育んだ歴史。それを大切に想いながらも、挑戦し続ける姿勢。そこには、私たちをあっと驚かせる仕掛けが多くある。

資生堂パーラーには、大切にしている想いがある。それは、「たくさんの方々との出会いを通して新しく深みのある価値を発見し、美しい生活文化を創造すること」。

薬局から始まった資生堂は、化粧品をはじめ、様々な事業へと世界を広げ今に至る。資生堂の中でも食の部門を担う資生堂パーラー。「食で内面から美しく」をコンセプトに、「本当の意味での“美味しい”は、“美しく”なくてはならない」ことも追求する。味を楽しみ、目でも楽しむ。お客さまに五感全てで楽しんでいただき、感動させる役割が資生堂パーラーにはあると提唱する。

資生堂パーラーに来店される人の中には、3世代、4世代に渡り愛し続ける人たちや、初めて来店される人もいる。誰がいつ訪れても、どんなシチュエーションであっても、ここへ来れば笑顔になれる、資生堂パーラーはそんな存在であり続けるだろう。

[box title=”店舗情報” box_color=”#c30d23″]店名:資生堂パーラー 銀座本店

住所:東京都中央区銀座8-8-3 東京銀座資生堂ビル

営業時間:
[火~土] 11:30~21:00
[日・祝] 11:30~20:00
定休日:月曜日(祝日の場合は営業)
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kanmi
3時のおやつはかかせない、甘党フリーライター。好物はクラブハリエのバームクーヘン。毎日がほんのりとあたたかくなるような文書をお届けします。